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2017年3月

2017年3月23日 (木)

鶴ヶ城を訪ねて⑤―馬出曲輪と本曲輪

Umadashikuruwa

 尾根道に出てから馬出曲輪までは、そんなに遠くはありません。曲輪(くるわ)とは、城内の縄張り(区画)の呼び名。馬出(うまだし)曲輪は、城の入口に当たる虎口(こぐち)の外側に設けられた防御のための区画ですから、必ずしも馬を飼っていたり、騎馬隊がいたわけではありません。

Honkuruwa

 その奥の平場が本曲輪とされ、馬出曲輪と本曲輪には社のような小屋が建てられていますが、これらは城郭とは関係ありません。

Dorui

 曲輪は杉に覆われていますが、戦国時代には見晴らしの効く山だったはず。永禄12年(1569)に落城した後、鶴ヶ城は利用されることなく放棄されていたようです。それが逆に、かつての曲輪の面影を残す城跡としてあることにつながっているのかも知れません。

 本曲輪の奥には土塁も残り、その脇にはかつての城主の霊を祀ったものか、石の祠が立っていました。

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2017年3月22日 (水)

鶴ヶ城を訪ねて④―竪堀と横堀

 城山の尾根に近づくと、最初の看板には「竪堀」と書かれています。

 山城の堀には「堀切」、「竪堀」と「横堀」とがあり、「竪堀」とは山の斜面の縦方向に造られた堀のこと。山歩きをしたことがある人なら分かると思いますが、斜面を水平方向、あるいは緩やかに登るように歩こうとする時、幾筋もの沢が流れるように縦に溝が掘られていたら歩きにくくなります。

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 つまり、これが「竪堀」ですが、人工的に造られた堀か、自然に出来た溝かを判断するのは難しいと思います。

Yokobori1 Yokobori2

 それに対して、「横堀」は斜面を横方向、水平に掘った堀。曲輪の下に掘り、(くるわ)に近づきにくくするための堀ですが、尾根道を切り取る「堀切」とは分けて考えられています。

 いずれにしても、人が近づきにくいように造られたのが山城ですから、歩きにくいのは我慢するしかありません。

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2017年3月21日 (火)

鶴ヶ城を訪ねて③―城内道

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 正確なところは、どこからを鶴ヶ城の城内道と言ったら良いのか分かりませんが、鶴ヶ城址に向かう道は最初はほぼ真っ直ぐ。傾斜がきつくなる辺りで「鶴ヶ城⇒」の看板が立っていますので、矢印に従って斜面を登る道へと入って行きます。

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 そこから先は、山の斜面をジグザグに進みます。尾根道に出るまでには、右へ左へと何度も折り返し、これが昔の城内道のままだったとすれば、馬はもちろん、武具を纏った人が歩くのも容易ではありません。

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 多くの山城同様、鶴ヶ城も攻撃のための基地ではなく、防御のための館。ただ、尾根に出たところには送電線鉄塔が立っていますので、樹木が伐り払われていたとすれば、麓に攻め寄って来た敵の動きを見張るのには好立地だったとも考えられます。

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2017年3月20日 (月)

鶴ヶ城を訪ねて②―桑ノ沢林道記念碑

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 「⇐鶴ヶ城跡」の案内看板を左折するのが山城跡へと向かう道ですが、足元の転がる石碑が目に止まりました。

 石碑には「林道記念」の文字。「竣工 昭和貮年四月」ですから、西暦1927年に竣工した「桑ノ沢林道延長千三十六間」。1036間は1.88363636 キロメートル。約2キロの林道工事が完了した記念碑です。

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 「寄附者芳名」として寄付金額と16人の氏名が刻まれているのは、林道工事が地域住民や山主たちがお金を出し合って造られたということ。「桑ノ沢」は『角川日本地名大辞典22静岡県』にも掲載されている字名です。

 鶴ヶ城の登城道は、いきなり土橋のように細い道。足を滑らせないように・・・。

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2017年3月19日 (日)

高根城跡に直虎効果 ロケ地水窪、見学ツアー好評

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 NHK大河ドラマ「おんな城主 直虎」のロケ地になった浜松市天竜区水窪町の高根城跡を訪れる観光客が、じわじわと増えている。市最北部で観光客の足が向きにくいのが難点だが、忠実に再現された中世の山城と展望の良さが訪れた人を魅了。地元の観光協会好調な見学バスツアーを増やす計画で、市も景観整備などで後押しする。

 「ここで亀之丞(井伊直親)が笛を吹きました」。地元のボランティアガイド入口忠男さん(69)が、眼下に集落を望む散策路の一角に立った。天竜区観光協会水窪支部の主催で10日に開かれた遠鉄西鹿島駅発着のツアーに、県内の23人が参加した。

 標高420メートルにあり、周囲を1,000メートル級の山々が囲む。城門や深さ9メートルの空堀、高さ8メートルの物見櫓が復元されている。「ドラマでは町がぼかされていましたね」と入口さん。友人と参加した袋井市松原の主婦沢口弘子さん(72)は「こんな高い所によく城ができたと思う。景色が良く無の気持ちになれる」と満足げだ。

 ドラマ初回から登場した効果は大きく、町内の資料館巡りなどとセットのツアー(料金6,000円)は募集後すぐ定員20人を超え、キャンセル待ちに。18日のツアーも埋まった。毎年3、4回開くが、応募が少なく催行できないこともあった。協会によると、例年は雪で1~3月の客はまばらだが、今年は30件近く場所の問い合わせがあり、山道入り口の10台ほどの駐車場が埋まる日も。

 水窪は高齢化率56%超と過疎化が進み、交流人口の増加が課題。支部職員の井上保典さん(60)は「もともと戦国の山城として愛好家の評価は高い。直虎効果の波に乗りたい」。水窪に客足を呼び込む好機と、2017年度のツアー催行を例年の2倍の7、8回に増やす計画だ。

 市も観光客の増加を見据え、城跡の見通しを良くするため1~3月に周辺の木々を伐採した。注目が集まる戦国の山城周遊を促そうと、徳川信康ゆかりの二俣城(天竜区二俣町)に山城巡りの看板も設置した。

 担当者は「今後は二俣城にも客が増えそう。そこから北に足を延ばしてほしい」と、直虎効果を広げたい考えだ。ツアーの問い合わせは天竜区観光協会水窪支部=電053(987)0432=へ。

 【高根城跡】地域の豪族の奥山氏が1414年、近くを流れる水窪川と山あいの地形を利用し築城したとされる。遠江に侵攻する武田氏に支配されて堀などが改修されたが、武田氏が織田、徳川の連合軍に長篠の戦いで敗れて廃城になった。旧水窪町がドラマの時代考証を務めた小和田哲男・静岡大名誉教授を会長に整備計画の委員会を設置。発掘調査に基づいて1999~2003年度に復元した。(「中日新聞」より)

 元々、高根城はファンに人気の山城。そこに直虎効果が加わり、客足が伸びているようです。

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鶴ヶ城を訪ねて①―さくま昔ばなし「鶴ヶ城」

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 今からおよそ四百年前の日本は「戦国時代」と呼ばれ、各地の大名や豪族たちが、自分の勢力をのばそうとしのぎをけずり、互いに争っていました。

 そのころ最も勢力の強かった大名は、駿河からこの地方まで勢力をもっていた今川義元でした。一方、甲斐の武田信玄、三河の菅沼氏や伊藤氏もこの北遠地方で勢力をのばそうとしていました。

 こうした中で、鶴ヶ城は、川上地区の向かい側にある高さ約百メートルほどの山の頂上に築かれ、下から見上げると、ちょうど鶴が舞い立つように見えたので、このような名前がつけられました。

 城主もこの城の名をとって、鶴山大磯之丞と言いました。

 永禄三年、今川義元は大群を率いて、駿府から京都を目ざして進み、天下統一の夢を果たそうとしました。しかし、桶狭間において、織田信長に大敗し命を落としてしまいました。すると、菅沼氏や伊藤氏は、次第に勢力を北遠地方にのばし、鶴ヶ城(永禄七年頃築城)の近くまで攻めてくるようになりました。

 永禄十一年の年が明けると、別所城主、伊藤源太郎貞次は、長篠城主、菅沼定景の援軍と共に、鶴ヶ城に大挙攻め寄せてきました。

 地の利に恵まれた鶴ヶ城は、攻めかかる敵軍を退けていましたが、多勢に無勢、落城の運命は目に見えてきました。やがて、味方は力尽きて全員で討ち死にすることになりました。しかし、城主の大磯之丞は、何とかして城兵の命を助けてくれるように、敵陣に使者を送りました。

 交渉の結果、家老山田半之亟を人質として差し出し、その間に城主が切腹することになりました。この時、奥方も運命を共にしたと言われます。約束にしたがい城兵の命は助けられました。

 落城は、永禄十一年二月、城下を流れる相川のほとりに、ねこやなぎのつぼみが、そっとふくらみはじめた頃でした。(「さくま昔ばなし」より)

   ◆       ◆       ◆       ◆

Iriguchi

 久しぶりに佐久間町川上の山城・鶴ヶ城跡を訪ねました。

 鶴ヶ城跡は県道9号から入ったところ。県道脇には看板がありますので、そこから少し坂道を登ります。

 車から降りて振り向くと見える山が鶴ヶ城があった城山。送電線鉄塔が立つ山の少し右手に残る山城跡まで歩いて行きましょう。

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2017年3月18日 (土)

天竜の石鳥居を追って⑨―二俣諏訪神社

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 今回の「天竜の石鳥居を追って」のラストは、二俣諏訪神社です。旧天竜市の中心でもあった二俣の氏神である神社の鳥居としては、意外とも感じる地味な神明鳥居。「明治三十三年四月三日建之」ですが、おそらくそれ以前には丸太を組んだ素木(しらき)鳥居があったと思われますので、その素朴とも言える形を踏襲したのかも知れません。

 この石鳥居を寄付したのは「報徳二俣社」。大日本報徳社による報徳思想は、早くから北遠に普及浸透し、農村復興が推し進められました。

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 しかし、勤勉・倹約を勧めた報徳思想はやがて国家神道と結び付き、政府に利用される軍国主義確立に利用されて来た側面があるのも事実。

 船明(ふなぎら)と二俣の諏訪神社鳥居に「報徳」の文字が刻まれているのには、そんな時代背景があるのかも知れません。

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新宮池から春埜山へ⑦―狼型の狛犬

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 春埜山大光寺で有名なのは、春埜杉ともう1つ、狼型の狛犬。神社では普通に見られる狛犬も、お寺では滅多に見られません。大光寺に狼型の狛犬があるのは、守護神である太白坊大権現の眷属が狼(山犬)だったとの言い伝えによるもの。

 しかし、明治時代の銅版画「春埜山之圖」には描かれていません。狛犬の台座には「大正元年蒞改元記念 爲國家安泰獻納者也」と刻まれていますので、西暦1912年の建立。それより前には、なかったことになります。

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 奉納者は「駿河國安倍郡長田村講中」とあり、現在の静岡駿河区の安倍川の西側。このことから、春埜山への信仰が西ではなく、東に広がっていたことが分かります。

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 そして、気になる石材ですが、これまであまり見ることがなかった緑色の石。おそらく伊豆石の一種、安山岩質の火砕岩だとは思いますが、かなり変質作用を受けたものかも知れません。

 向かって左が口を開いた阿形で、右が口を閉じた吽形。よく見る狛犬たちの並びとは逆なのも不思議。あばらが浮き出た体ですが、眼光鋭く睨み付けています。一体、この狛犬はどこの誰が造ったのでしょうか?

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2017年3月17日 (金)

新宮池から春埜山へ⑥―春埜杉

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 春埜山大光寺に立ち寄ったら、どうしても見ていただきたいのが県指定天然記念物であり「新・浜松の自然100選」にも選定されている巨樹「春埜杉」。もちろん銅版画「春埜山之圖」にも描かれ、当時から力強く枝を伸ばした力強い姿が知られ、「春埜杉」の名で呼ばれていたことも分かります。

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 現在では境内から眺めるしかありませんが、かつての参道は春埜杉の脇を回るように抜けていたため、大光寺に参拝する誰もが杉を見上げ、その幹に触れ、自然の生命力を感じることができたと思います。

 この杉を植えたのは大光寺開祖の行基であるとの言い伝えの信憑性はともかく、自生ではなく植樹された杉であるのは間違いないかも知れません。

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 ただ、気になるのは、最近「春埜杉」の表記が「春野杉」あるいは「春野スギ」に変えられていること。「春埜山」の表記はそのままですが、天然記念物の登録名は「春野スギ」とはどういうことでしょう?

 春野町の名は、犬居町と熊切村とが合併した時、「春埜山」に因んで付けられたもの。ただし、その時に犬居町への配慮から「埜」を「野」へと変えたと聞いています。固有名詞であるのも関わらず表記を変え、しかも「杉」の漢字を植物名だからと「スギ」とカタカナ表記にしてしまったのには悲しさを覚えます。

 だったら、「浜松」は「浜マツ」とすべきだ!

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旧勝坂小の木造校舎を模型で再現 浜松の男性

◆3年かけて完成 あすから浜北で展示 

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 元家具職人でミニチュア作家に転じた浜松市東区半田山の神谷満さん(64)が、ピンクの外観で知られる旧勝坂小学校舎(同市天竜区春野町)の模型を完成させた。「木造校舎を模型で残したい」「見る人それぞれの学校の思い出をよみがえらせてほしい」。3年かけて懐かしい雰囲気を再現し、17日から、同市浜北区の県森林公園で披露する。

 同校は1968(昭和43)年度に廃校。校舎は国の登録有形文化財に指定されている。作品は「山の小学校 卒業(たびだち)の朝」と名付け、2階の講堂で開かれる卒業式の様子、掃除の時間に天井へぞうきんを投げる児童、職員室でだるまストーブを囲む教員の姿などが楽しめる。昭和の雰囲気にあふれ、24分の1の大きさながら、子どもたちの声が聞こえてきそうだ。

 神谷さんは昔の写真を入手してイメージを膨らませ、現地で採寸。木をミリ単位で加工していすを組み立て、教壇の上の鉛筆削りからランドセルまで、すべてを一人で手掛けた。

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 かつては市内の家具メーカーの職人で、校舎で使う教壇や机、いすなども納品した。工具の扱いや材質の知識、繊細に木を組む技術などを磨いた。

 もともと模型作りは好きだったが、53歳の時、「客の希望に応えるのではなく、自分の意思を入れて作りたい」と退職。

 転身して3年ほどは何を作っても「偽物だ」と感じたが、黙々と数をこなした。質を上げるうちに模型ならではの良さを体で覚え、納得がいくようになった。

 遠州綿紬(つむぎ)を鼻緒に使ったげた、古民家や商店などレパートリーを増やしていった。2010年には、廃校となった木造の旧石神小(天竜区)の作品が「浜名湖アート・クラフトフェア」で大賞を射止めた。

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 木造校舎は最近のテーマ。「木造校舎で学んだ世代の一人として、模型で残したい。そういう『意志』を、最近は作品に込められるようになった」と語る。

 30日まで森林公園ビジターセンターで開かれる作品展では20~30点を並べ、遅咲きデビューから10年の集大成を見せる。

 神谷さんは「目線を下げて、しゃがみ込んで作品の世界に入ってほしい」と話す。(「中日新聞」より)

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 あなたが学んだ校舎は木造でしたか?私の頃は木造から鉄筋コンクリート造へと建て替えが盛んな時期。1年、3年、5年生は木造でしたが、今では写真に残るだけです。

天竜川・そまびとの会

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