武田式築城の特徴―高根城に残る「二重堀切」
北遠最北の山城「高根城」―応永21年(1414)頃、この地を治めていた豪族奥山氏が、後醍醐天皇の孫・尹良親王を守護するための仮宮として築かれたことに始まると言われています。
築城されたのは、水窪川と河内川が合流する位置。標高420メートルの三角山山頂。当時は堀などはなく、城というよりも「砦」の様相だったと言われています。その後、優れた築城術をもつ武田(勝頼)氏が駿遠攻略の最前線として大改修し、現在、私たちが目にすることができるのは、武田氏時代の遺構と発掘調査に基づいて復元された櫓や城門など。
防御に優れた武田式の築城技術を語る中で登場する用語に「二重堀切」があります。
「堀切」とは、すでに紹介したように、尾根伝いに攻めてくる敵の進路を絶つために、尾根と直角の方向に掘られた堀のこと。勢いよく攻めてきた敵は、一旦、堀に下りなくてはなりません。その時に頭上から敵に目がけて、矢を放ち、石を投げつけて攻撃を加えます。
ただし、まだ堀に下りていない敵からは、目の高さの位置での攻撃を受けることになります。守備側が防戦に追われているうちに、攻撃側の先兵は堀を登り切ってしまうかも知れません。
そのために、堀の底に低い土塁を造り、一旦土塁を越えると、もう1つの堀切が待ち構えているというのが「二重堀切」です。
写真が、発掘保存されている「高根城」の「二重堀切」。この用心深さが、武田式と言われる築城の特徴です。
「高根城」址は、「高根城公園」として自由に見学できる公園になっています。
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三の曲輪から見た井楼櫓 | 本曲輪下段虎口 |
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仕切門 | 大手門 |
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三の曲輪 | 井楼櫓 |
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薬研堀 | 箱堀 |
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