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2008年9月 5日 (金)

佐久間の民話「落城物語 若子城」

 永禄3年3月の頃、奥山能登守の守る城に信州遠山氏が攻め込んできました。

 能登守は信じられませんでした。妻は、遠山の和田河内守より嫁いだ者であり、息子奥山民部少輔貞益の嫁は遠山氏の娘であるからです。

 能登守は、すでに隠居の身であったことから、わずかな家来しかなく、たちまち屋敷は遠山氏にとり囲まれてしまいました。

 家来の多くは、勇敢に立ち向かっていきましたが、ことごとく討ち死にしてしまい、能登守は自らの刃で一命を落としました。

 能登守の命令で、のろしを上げに登った家来も先回りされた遠山勢に討たれ、本城、高根城に急をつげることはかないませんでした。

 高根城主である奥山民部少貞益は、この日熊村の奥山将監の所に出向いていました。そのことを知っていた奥山美濃守定茂は遠山氏と図り、この挙に出たのでした。

 思いもよらない弟美濃守と妻の実家の遠山氏の城攻めに、驚きと信じがたさによって、城中はあわてふためき、城を守るのに大わらわでした。

 美濃守と遠山勢は城中へ火を放ちました。奥方と子供は家来に守られて脱出しましたが、逃げのびる途中、敵に見つけられ、池の平でその命を奪われてしまいました。

 勝ちほこった美濃守と遠山勢は、高根城の出城である奥山加賀守の大洞若子城に押し寄せました。加賀守は家来と共に必死に戦いましたが、山尾根をつたって、山中深く逃げかくれてしまいました。(「浜松だいすきネット」より)

   ◆       ◆       ◆       ◆

 奥山能登守には4人の息子たちがいましたが、兄弟それぞれが領内を分割して独立築城。その頃、今川氏の勢力が減退し、西からは新興の徳川家康が、北からは強豪の武田信玄が北遠を窺うようになっていました。特に武田方の北遠に対する動きは活発で、「兄弟は他人の始まり」の言葉の通り、兄弟は今川の陣にとどまるものと、武田につく者とに別れてしまいました。これが「悲劇」のもと。戦国時代のドラマは、現代にも通じるものがあります。

 ●難読地名その2です。城西地区に「向皆外(むかがいと)」という地名があります・・・
 ●以前、「向皆外(むかがいと)」の地名について、次のように・・・
 【関連記事】「城西(しろにし)」は「若子城」の西?
 ●佐久間町城西地区・向皆戸(むかがいと)の「若子城址」の丸太看板は・・・
 ●「城ブーム」の中、気軽に近づける「若子城」の人気が・・・
 【関連記事】「広報はままつ」(天竜区版)歴史探訪―若子城跡
 【関連記事】初版・さくま昔ばなし「若子城顛末記」より

コメント

佐久間町城西地区向皆戸の名称の由来について私が中学生の時に本家の祖母より直接聞いた話です。私の本家の屋号は下神原といいます。城西小学校の手前に在る日光大権現神社からJR城西駅の手前200mくらいまでの地区を江戸時代には下神原村と称していました。そして、本家から水窪川を挟み対岸の地区を「下神原の内向皆戸村」と1600年代の古図に載っています。本家から向かった対岸に小作人が住んでいたことから先祖が名付けたと聞いています。(現在の向皆外の記載は誤り)

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