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2017年3月23日 (木)

鶴ヶ城を訪ねて⑤―馬出曲輪と本曲輪

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 尾根道に出てから馬出曲輪までは、そんなに遠くはありません。曲輪(くるわ)とは、城内の縄張り(区画)の呼び名。馬出(うまだし)曲輪は、城の入口に当たる虎口(こぐち)の外側に設けられた防御のための区画ですから、必ずしも馬を飼っていたり、騎馬隊がいたわけではありません。

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 その奥の平場が本曲輪とされ、馬出曲輪と本曲輪には社のような小屋が建てられていますが、これらは城郭とは関係ありません。

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 曲輪は杉に覆われていますが、戦国時代には見晴らしの効く山だったはず。永禄12年(1569)に落城した後、鶴ヶ城は利用されることなく放棄されていたようです。それが逆に、かつての曲輪の面影を残す城跡としてあることにつながっているのかも知れません。

 本曲輪の奥には土塁も残り、その脇にはかつての城主の霊を祀ったものか、石の祠が立っていました。

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2017年3月22日 (水)

鶴ヶ城を訪ねて④―竪堀と横堀

 城山の尾根に近づくと、最初の看板には「竪堀」と書かれています。

 山城の堀には「堀切」、「竪堀」と「横堀」とがあり、「竪堀」とは山の斜面の縦方向に造られた堀のこと。山歩きをしたことがある人なら分かると思いますが、斜面を水平方向、あるいは緩やかに登るように歩こうとする時、幾筋もの沢が流れるように縦に溝が掘られていたら歩きにくくなります。

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 つまり、これが「竪堀」ですが、人工的に造られた堀か、自然に出来た溝かを判断するのは難しいと思います。

Yokobori1 Yokobori2

 それに対して、「横堀」は斜面を横方向、水平に掘った堀。曲輪の下に掘り、(くるわ)に近づきにくくするための堀ですが、尾根道を切り取る「堀切」とは分けて考えられています。

 いずれにしても、人が近づきにくいように造られたのが山城ですから、歩きにくいのは我慢するしかありません。

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2017年3月21日 (火)

鶴ヶ城を訪ねて③―城内道

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 正確なところは、どこからを鶴ヶ城の城内道と言ったら良いのか分かりませんが、鶴ヶ城址に向かう道は最初はほぼ真っ直ぐ。傾斜がきつくなる辺りで「鶴ヶ城⇒」の看板が立っていますので、矢印に従って斜面を登る道へと入って行きます。

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 そこから先は、山の斜面をジグザグに進みます。尾根道に出るまでには、右へ左へと何度も折り返し、これが昔の城内道のままだったとすれば、馬はもちろん、武具を纏った人が歩くのも容易ではありません。

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 多くの山城同様、鶴ヶ城も攻撃のための基地ではなく、防御のための館。ただ、尾根に出たところには送電線鉄塔が立っていますので、樹木が伐り払われていたとすれば、麓に攻め寄って来た敵の動きを見張るのには好立地だったとも考えられます。

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2017年3月20日 (月)

鶴ヶ城を訪ねて②―桑ノ沢林道記念碑

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 「⇐鶴ヶ城跡」の案内看板を左折するのが山城跡へと向かう道ですが、足元の転がる石碑が目に止まりました。

 石碑には「林道記念」の文字。「竣工 昭和貮年四月」ですから、西暦1927年に竣工した「桑ノ沢林道延長千三十六間」。1036間は1.88363636 キロメートル。約2キロの林道工事が完了した記念碑です。

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 「寄附者芳名」として寄付金額と16人の氏名が刻まれているのは、林道工事が地域住民や山主たちがお金を出し合って造られたということ。「桑ノ沢」は『角川日本地名大辞典22静岡県』にも掲載されている字名です。

 鶴ヶ城の登城道は、いきなり土橋のように細い道。足を滑らせないように・・・。

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2017年3月19日 (日)

高根城跡に直虎効果 ロケ地水窪、見学ツアー好評

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 NHK大河ドラマ「おんな城主 直虎」のロケ地になった浜松市天竜区水窪町の高根城跡を訪れる観光客が、じわじわと増えている。市最北部で観光客の足が向きにくいのが難点だが、忠実に再現された中世の山城と展望の良さが訪れた人を魅了。地元の観光協会好調な見学バスツアーを増やす計画で、市も景観整備などで後押しする。

 「ここで亀之丞(井伊直親)が笛を吹きました」。地元のボランティアガイド入口忠男さん(69)が、眼下に集落を望む散策路の一角に立った。天竜区観光協会水窪支部の主催で10日に開かれた遠鉄西鹿島駅発着のツアーに、県内の23人が参加した。

 標高420メートルにあり、周囲を1,000メートル級の山々が囲む。城門や深さ9メートルの空堀、高さ8メートルの物見櫓が復元されている。「ドラマでは町がぼかされていましたね」と入口さん。友人と参加した袋井市松原の主婦沢口弘子さん(72)は「こんな高い所によく城ができたと思う。景色が良く無の気持ちになれる」と満足げだ。

 ドラマ初回から登場した効果は大きく、町内の資料館巡りなどとセットのツアー(料金6,000円)は募集後すぐ定員20人を超え、キャンセル待ちに。18日のツアーも埋まった。毎年3、4回開くが、応募が少なく催行できないこともあった。協会によると、例年は雪で1~3月の客はまばらだが、今年は30件近く場所の問い合わせがあり、山道入り口の10台ほどの駐車場が埋まる日も。

 水窪は高齢化率56%超と過疎化が進み、交流人口の増加が課題。支部職員の井上保典さん(60)は「もともと戦国の山城として愛好家の評価は高い。直虎効果の波に乗りたい」。水窪に客足を呼び込む好機と、2017年度のツアー催行を例年の2倍の7、8回に増やす計画だ。

 市も観光客の増加を見据え、城跡の見通しを良くするため1~3月に周辺の木々を伐採した。注目が集まる戦国の山城周遊を促そうと、徳川信康ゆかりの二俣城(天竜区二俣町)に山城巡りの看板も設置した。

 担当者は「今後は二俣城にも客が増えそう。そこから北に足を延ばしてほしい」と、直虎効果を広げたい考えだ。ツアーの問い合わせは天竜区観光協会水窪支部=電053(987)0432=へ。

 【高根城跡】地域の豪族の奥山氏が1414年、近くを流れる水窪川と山あいの地形を利用し築城したとされる。遠江に侵攻する武田氏に支配されて堀などが改修されたが、武田氏が織田、徳川の連合軍に長篠の戦いで敗れて廃城になった。旧水窪町がドラマの時代考証を務めた小和田哲男・静岡大名誉教授を会長に整備計画の委員会を設置。発掘調査に基づいて1999~2003年度に復元した。(「中日新聞」より)

 元々、高根城はファンに人気の山城。そこに直虎効果が加わり、客足が伸びているようです。

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鶴ヶ城を訪ねて①―さくま昔ばなし「鶴ヶ城」

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 今からおよそ四百年前の日本は「戦国時代」と呼ばれ、各地の大名や豪族たちが、自分の勢力をのばそうとしのぎをけずり、互いに争っていました。

 そのころ最も勢力の強かった大名は、駿河からこの地方まで勢力をもっていた今川義元でした。一方、甲斐の武田信玄、三河の菅沼氏や伊藤氏もこの北遠地方で勢力をのばそうとしていました。

 こうした中で、鶴ヶ城は、川上地区の向かい側にある高さ約百メートルほどの山の頂上に築かれ、下から見上げると、ちょうど鶴が舞い立つように見えたので、このような名前がつけられました。

 城主もこの城の名をとって、鶴山大磯之丞と言いました。

 永禄三年、今川義元は大群を率いて、駿府から京都を目ざして進み、天下統一の夢を果たそうとしました。しかし、桶狭間において、織田信長に大敗し命を落としてしまいました。すると、菅沼氏や伊藤氏は、次第に勢力を北遠地方にのばし、鶴ヶ城(永禄七年頃築城)の近くまで攻めてくるようになりました。

 永禄十一年の年が明けると、別所城主、伊藤源太郎貞次は、長篠城主、菅沼定景の援軍と共に、鶴ヶ城に大挙攻め寄せてきました。

 地の利に恵まれた鶴ヶ城は、攻めかかる敵軍を退けていましたが、多勢に無勢、落城の運命は目に見えてきました。やがて、味方は力尽きて全員で討ち死にすることになりました。しかし、城主の大磯之丞は、何とかして城兵の命を助けてくれるように、敵陣に使者を送りました。

 交渉の結果、家老山田半之亟を人質として差し出し、その間に城主が切腹することになりました。この時、奥方も運命を共にしたと言われます。約束にしたがい城兵の命は助けられました。

 落城は、永禄十一年二月、城下を流れる相川のほとりに、ねこやなぎのつぼみが、そっとふくらみはじめた頃でした。(「さくま昔ばなし」より)

   ◆       ◆       ◆       ◆

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 久しぶりに佐久間町川上の山城・鶴ヶ城跡を訪ねました。

 鶴ヶ城跡は県道9号から入ったところ。県道脇には看板がありますので、そこから少し坂道を登ります。

 車から降りて振り向くと見える山が鶴ヶ城があった城山。送電線鉄塔が立つ山の少し右手に残る山城跡まで歩いて行きましょう。

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2017年3月18日 (土)

天竜の石鳥居を追って⑨―二俣諏訪神社

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 今回の「天竜の石鳥居を追って」のラストは、二俣諏訪神社です。旧天竜市の中心でもあった二俣の氏神である神社の鳥居としては、意外とも感じる地味な神明鳥居。「明治三十三年四月三日建之」ですが、おそらくそれ以前には丸太を組んだ素木(しらき)鳥居があったと思われますので、その素朴とも言える形を踏襲したのかも知れません。

 この石鳥居を寄付したのは「報徳二俣社」。大日本報徳社による報徳思想は、早くから北遠に普及浸透し、農村復興が推し進められました。

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 しかし、勤勉・倹約を勧めた報徳思想はやがて国家神道と結び付き、政府に利用される軍国主義確立に利用されて来た側面があるのも事実。

 船明(ふなぎら)と二俣の諏訪神社鳥居に「報徳」の文字が刻まれているのには、そんな時代背景があるのかも知れません。

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新宮池から春埜山へ⑦―狼型の狛犬

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 春埜山大光寺で有名なのは、春埜杉ともう1つ、狼型の狛犬。神社では普通に見られる狛犬も、お寺では滅多に見られません。大光寺に狼型の狛犬があるのは、守護神である太白坊大権現の眷属が狼(山犬)だったとの言い伝えによるもの。

 しかし、明治時代の銅版画「春埜山之圖」には描かれていません。狛犬の台座には「大正元年蒞改元記念 爲國家安泰獻納者也」と刻まれていますので、西暦1912年の建立。それより前には、なかったことになります。

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 奉納者は「駿河國安倍郡長田村講中」とあり、現在の静岡駿河区の安倍川の西側。このことから、春埜山への信仰が西ではなく、東に広がっていたことが分かります。

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 そして、気になる石材ですが、これまであまり見ることがなかった緑色の石。おそらく伊豆石の一種、安山岩質の火砕岩だとは思いますが、かなり変質作用を受けたものかも知れません。

 向かって左が口を開いた阿形で、右が口を閉じた吽形。よく見る狛犬たちの並びとは逆なのも不思議。あばらが浮き出た体ですが、眼光鋭く睨み付けています。一体、この狛犬はどこの誰が造ったのでしょうか?

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2017年3月17日 (金)

新宮池から春埜山へ⑥―春埜杉

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 春埜山大光寺に立ち寄ったら、どうしても見ていただきたいのが県指定天然記念物であり「新・浜松の自然100選」にも選定されている巨樹「春埜杉」。もちろん銅版画「春埜山之圖」にも描かれ、当時から力強く枝を伸ばした力強い姿が知られ、「春埜杉」の名で呼ばれていたことも分かります。

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 現在では境内から眺めるしかありませんが、かつての参道は春埜杉の脇を回るように抜けていたため、大光寺に参拝する誰もが杉を見上げ、その幹に触れ、自然の生命力を感じることができたと思います。

 この杉を植えたのは大光寺開祖の行基であるとの言い伝えの信憑性はともかく、自生ではなく植樹された杉であるのは間違いないかも知れません。

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 ただ、気になるのは、最近「春埜杉」の表記が「春野杉」あるいは「春野スギ」に変えられていること。「春埜山」の表記はそのままですが、天然記念物の登録名は「春野スギ」とはどういうことでしょう?

 春野町の名は、犬居町と熊切村とが合併した時、「春埜山」に因んで付けられたもの。ただし、その時に犬居町への配慮から「埜」を「野」へと変えたと聞いています。固有名詞であるのも関わらず表記を変え、しかも「杉」の漢字を植物名だからと「スギ」とカタカナ表記にしてしまったのには悲しさを覚えます。

 だったら、「浜松」は「浜マツ」とすべきだ!

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旧勝坂小の木造校舎を模型で再現 浜松の男性

◆3年かけて完成 あすから浜北で展示 

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 元家具職人でミニチュア作家に転じた浜松市東区半田山の神谷満さん(64)が、ピンクの外観で知られる旧勝坂小学校舎(同市天竜区春野町)の模型を完成させた。「木造校舎を模型で残したい」「見る人それぞれの学校の思い出をよみがえらせてほしい」。3年かけて懐かしい雰囲気を再現し、17日から、同市浜北区の県森林公園で披露する。

 同校は1968(昭和43)年度に廃校。校舎は国の登録有形文化財に指定されている。作品は「山の小学校 卒業(たびだち)の朝」と名付け、2階の講堂で開かれる卒業式の様子、掃除の時間に天井へぞうきんを投げる児童、職員室でだるまストーブを囲む教員の姿などが楽しめる。昭和の雰囲気にあふれ、24分の1の大きさながら、子どもたちの声が聞こえてきそうだ。

 神谷さんは昔の写真を入手してイメージを膨らませ、現地で採寸。木をミリ単位で加工していすを組み立て、教壇の上の鉛筆削りからランドセルまで、すべてを一人で手掛けた。

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 かつては市内の家具メーカーの職人で、校舎で使う教壇や机、いすなども納品した。工具の扱いや材質の知識、繊細に木を組む技術などを磨いた。

 もともと模型作りは好きだったが、53歳の時、「客の希望に応えるのではなく、自分の意思を入れて作りたい」と退職。

 転身して3年ほどは何を作っても「偽物だ」と感じたが、黙々と数をこなした。質を上げるうちに模型ならではの良さを体で覚え、納得がいくようになった。

 遠州綿紬(つむぎ)を鼻緒に使ったげた、古民家や商店などレパートリーを増やしていった。2010年には、廃校となった木造の旧石神小(天竜区)の作品が「浜名湖アート・クラフトフェア」で大賞を射止めた。

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 木造校舎は最近のテーマ。「木造校舎で学んだ世代の一人として、模型で残したい。そういう『意志』を、最近は作品に込められるようになった」と語る。

 30日まで森林公園ビジターセンターで開かれる作品展では20~30点を並べ、遅咲きデビューから10年の集大成を見せる。

 神谷さんは「目線を下げて、しゃがみ込んで作品の世界に入ってほしい」と話す。(「中日新聞」より)

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 あなたが学んだ校舎は木造でしたか?私の頃は木造から鉄筋コンクリート造へと建て替えが盛んな時期。1年、3年、5年生は木造でしたが、今では写真に残るだけです。

天竜の石鳥居を追って⑧―椎ヶ脇神社のもう1つの鳥居

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 以前、「西鹿島・椎ヶ脇神社に立つ2つの鳥居」で紹介した通り、東の方向にもう1基の石鳥居があります。天竜川が見下ろせる中程に建てられ、かつてあった川岸の渡船場から石段を登る参拝客を迎えています。

 この石鳥居は神明鳥居の貫の断面が長方形で、靖国鳥居と呼ばれている形。「明治四十二年八月建之」と刻まれていますので、社殿南の大正10年(1921)の鳥居よりも12年前の建立です。

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 鳥居の足元には、これも以前「『池田邑』『舟越一色村』―椎ヶ脇神社に残る渡船役の村名」で紹介した燈籠の残骸があります。

 「施主池田邑中」は「寛政十戊午年」、「當國敷智郡舟越一色村 渡舟○○」は「文化十四丑○○」。それぞれ、西暦1798年と1817年の建立。江戸時代の渡船役に従事していた磐田市池田と中区船越町から、渡船の安全を願っての奉納です。

 明治、大正の石鳥居はトラックに乗せて運ばれたものかも知れませんが、江戸時代建立の石鳥居は船に乗せて運ばれたものと思われます。

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2017年3月16日 (木)

浜松市がグランプリ グリーンレジリエンス大賞

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 浜松市は15日、国が推進する国土強靱(きょうじん)化の先進活動を表彰する「ジャパン・レジリエンス・アワード(強靭化大賞)2017」で、グリーンレジリエンス大賞グランプリに輝いた。適切な森林管理や地元木材を活用した産業振興を同時に進める「浜松版グリーンレジリエンス」が評価された。

 アワードは国土強靱化の普及、促進に取り組む企業や団体でつくるレジリエンスジャパン推進協議会が15年に創設した。今回、新部門として自然資源を地域の防災・減災や産業振興に役立てる活動を対象にしたグリーンレジリエンス大賞を設けた。

 浜松市は森林管理協議会(FSC)の認証制度に基づく森林管理や、天竜材を生かした新事業創出、木材利用拡大などに取り組んでいる。森林の多面的機能の維持・拡大と産業振興を図ることで、地方創生の実現を目指す。

 都内で同日、開かれた表彰式で鈴木康友市長は「望外の喜びであり、光栄に思う。受賞を機に先進自治体として日本をリードしていきたい」と述べた。同大賞では、静岡市の麻機遊水地保全活用推進協議会べーテル部会も最優秀賞を受けた。(「静岡新聞」より)

 私たちの暮らしは、森林環境の保全の上に成り立っています。浜松市の取り組みが評価されたのは嬉しいニュース。これからが本当の始まりです。

天竜の石鳥居を追って⑦―椎ヶ脇神社

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 天竜川の治水の神と言えば、諏訪神社よりも西鹿島に祀られている椎ヶ脇神社。「鹿島」の地名は、船を繋ぎ止める狭い水路をさす古代語「枷間(かせま)」に由来するとのこと。北遠の山地を蛇行しながら流れ下って来た天竜川が平地に出るところで、北鹿島とを結ぶ渡船場があり、筏流しの中継地でもあった場所です。

 川運の重要な地点に鎮座するかつての式内社・郷社だった椎ヶ脇神社の鳥居は2基あり、1基は南に面した杉に囲まれた社殿南にあり、もう1基は天竜川を見下ろす東の中段にあります。

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 社殿南の鳥居は、「大正十年八月建之」の明神鳥居。西暦1921年建立ですから、まだ100年は経っていません。

 江戸時代の年号が刻まれているのは社殿前の2基の石燈籠。「文化五戊辰」「文化十二乙亥」の文字が読み取れます。西暦で言えば文化5年は1808年。同12年は1815年で、日米修好通商条約に調印し、日本の開国近代化を断行した大老・井伊直弼が生まれた年です。

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新宮池から春埜山へ⑤―大鳥居のある寺

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 春埜山山頂を離れて道を進むと、車は再び春野町花島へと入り、さらに少し行くと正面に銅で覆われた大鳥居が見えて来ます。鳥居の額には「春埜山」と山号のみが記されていますが、大光寺は曹洞宗のお寺ですから、鳥居が立つ寺とは実に不思議な景色です。

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 大光寺の本尊は太梵天、帝釈天、閻魔尊天ですが、その守護神は太白坊大権現と言いますから、元々は神仏習合の修験道に由来した寺院であることが分かります。

 しかし、明治時代に作られた銅版画「春埜山之圖」に鳥居は描かれていません。現在は西から鳥居をくぐるのですが、川根道、秋葉道、大日道のいずれも春埜杉の脇を抜け、南から冠木門(かぶきもん)をくぐり境内に上がるように描かれています。

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 鳥居脇には「平成七年四月吉日」の石碑も建てられていましたので、鳥居は古くからあったものではないようです。

 江戸時代以前には普通に見られた風景なのかも知れませんが、堂々と鳥居をくぐって入る寺は多くはありません。豊川稲荷と妙厳寺のように、1つの境内に神社とお寺が併存しているケースはありますが・・・。

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2017年3月15日 (水)

新宮池から春埜山へ④―春埜山山頂の三角点

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 和泉平から砂川(いさわが)、大時を経て春埜山大光寺へと向かう坂道の途中から、立ち寄ったばかりの砂川の集落が見えました。

 大光寺へと向かう道は舗装されてはいるのですが、あちらこちらで路面の陥没や道路脇の崩土が見られ、路上には避けきれないほどの落石が散らばっています。

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 くねくねと続く道路は浜松市から一旦森町を通り、春埜山山頂があるのは森町。東海自然歩道の標識で車を止めて、ほんの少しだけ歩くと山頂を示す二等三角点があります。国土地理院の地図によれば春埜山の標高は883.4メートル。

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 秋葉山は秋葉神社上社社殿裏の最高点が神域ですから三角点は設置されていませんが、BPS観測により885メートルとされていますので、ほぼ同じ高さです。大光寺があるのは、さらに東。標高872メートルですから、866メートルの秋葉神社上社よりも高い位置になります。

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天竜の石鳥居を追って⑥―大園諏訪神社

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 大園諏訪神社は諏訪神社に間違いないのですが、なぜか、諏訪神社の「梶の葉」紋でなく秋葉寺や秋葉神社で使われていた「剣花菱」が掲げられている珍しい神社です。

 石鳥居の形は、少しだけ柱のころび(傾斜)が見られますが、簡素な神明鳥居で「明治四十三年一月建之」の建立。江戸時代のものではありませんが、明治43年(1910)と言えば、もう107年前ということになります。

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 「區内安全」と刻まれた石燈籠は「大正四年八月建之」。大正4年(1915)はもちろん大正天皇の即位式の年ですが、即位式があったのは11月。3ヶ月ほど早いのはどうしてでしょう?

 それにしても、天竜川沿いには諏訪神社が多く点在しています。それには諏訪神社の祭神である建御名方命(たけみなかたのかみ)が、洪水を防ぐ治水の神と考えられていたからではないでしょうか?

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田舎暮らし、女性が体験 天竜・春野町

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 市街地の女性を対象にした田舎暮らし体験会が浜松市天竜区春野町であり、参加した県内外の20代女性5人が竹細工づくりや農作業を楽しんだ。

 山間地の魅力を発信してもらい将来の移住につなげようと、市が3年前から開いている。参加者は同町に昨年移住した竹細工職人鈴木げんさんの指導で、地元産の竹ひごを編み込んだ直径10センチほどの置物の風車を作った。

 茶畑では農機具を使い、茶の木の根を抜く作業に取り組んだ。

 浜松市東区出身で東京都の会社員高橋未和さん(28)は「緑がいっぱいでリフレッシュできる。いずれは田舎暮らしもしてみたい」と話した。(「中日新聞」より)

 自然に囲まれた住環境で生活する田舎暮らしにあこがれる人が増えています。都市部に近い北遠は、田舎暮らしにうってつけの場所。あなたも移住を考えてきてはいかがですか?

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2017年3月14日 (火)

「旧勝坂小」模型で再現 浜松の神谷さん、17日から展示

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 浜松市東区半田山のミニチュア家具作家神谷満さん(64)がこのほど、ピンクの木造校舎として知られる国の登録有形文化財「旧勝坂小学校」(同市天竜区春野町)の24分の1のミニチュアを製作した。校舎としての現役当時を知る人に取材し、卒業式の様子を生き生きと再現した。17日から30日まで、同市浜北区尾野の県立森林公園バードピア浜北で展示する。

 元家具職人の神谷さんは11年前にドールハウスやミニチュア家具の作家に転身。これまでさまざまなミニチュアの建物を製作し、浜名湖アートクラフトフェアのクラフト大賞などを受賞した。

 勝坂小のミニチュア製作のきっかけは、展示会で父親が同校の教員だったという女性から話を聞いたことだった。実際に校舎に赴いて寸法を測ったり、その女性や地元の人に取材したりして、3年がかりで完成させた。「諦めかけたこともあったが、地元の人の愛着を知り、何とかやりとげられた」と話す。

 横1メートル、縦50センチ、高さ44センチのミニチュアは壁を取り外すことができ、教室の中も見られる。教室の仕切りを取ると講堂になる同校の構造や、卒業式の風景、掃除中の児童の様子などが忠実に表現されている。神谷さんは「勝坂小や、このような木造校舎で学んだ人たちにぜひ見てほしい」と来場を呼び掛ける。(「静岡新聞」より)

 国指定登録有形文化財の校舎が、相当細かなところまで再現されているようです。見に出かけるのが楽しみです。

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 ●写真の2階建ての校舎は、知る人ぞ知る「周智郡立勝坂小学校」跡・・・
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新宮池から春埜山へ③―砂川の茶園とカゴノキ

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 次に車を停めたのは、砂川(いさがわ)の茶園が見下ろせる公民館。曹洞宗の寺、高繁寺と隣り合わせに建てられている砂川公民館の横に旧春野町の「名木百選」に選定されているカゴノキがあります。

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 カゴノキの名前は「鹿子の木」の意味。樹皮に現れる斑点が、鹿の子模様に似ているところからカゴノキと名付けられたとのことで、砂川のカゴノキの幹にも、樹皮が剥がれたような斑点が。

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 また、幹の中程に大きな穴が開き、その空洞を通して向こうの景色が透けて見えています。

 砂川の茶園風景は、私が勝手に選んだ「北遠の茶園10景」の1つ。斜面の等高線に平行に、幾重にも植えられた茶畝は、私が大好きな北遠の風景です。

 *「北遠の茶園10景」を冊子スタイルにまとめてみました。自由にダウンロードしてください。「北遠の茶園10景」.pdfをダウンロード

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天竜の石鳥居を追って⑤―船明諏訪神社

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 船明(ふなぎら)諏訪神社の石鳥居の形は明神鳥居。船明諏訪神社が現在地に移されたのは、昭和53年(1978)5月。船明ダム完成の翌年のことです。

 だったら、石鳥居の建立もその時かも知れないとも思ったのですが、刻まれた文字は「報徳三十年紀念」と読めます。「報徳」が、明治8年(1875)設立の大日本報徳社を意味するとすれば、「三十年紀念」は同38年(1905)になります。

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 「天竜の石鳥居を追って④」では、「明治・大正時代は政府が国家神道の浸透を図るため、集落の祭祀を奨励し、鳥居の造立も盛んだった」と紹介しましたが、明治後期から大正になれば、トラックによる陸運も盛んになって来た時代。各地の神社の鳥居が木製から石製に変えられたのには、そんな要因があったのかも知れません。

 しかし、船明は天竜川に沿った地域。この石鳥居は川船で運ばれた可能性もあります。

 社殿の前に立つ石燈籠には「正徳元年」の文字が刻まれています。正徳元年は西暦1711年。306年前の石燈籠が今も残っています。

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